こんばんは!
減量を開始した直後、ちょっと煮詰まって精神的にいっぱいいっぱいになり始めたので、早速色々なことのリセットをしていた4月2-3週目でした。
自分は思っていたほど強くない、できない、という現実から
もっとやらなきゃ、勉強しなきゃ、、と焦る気持ちが数カ月続いていて、とうとう心が消耗しきってしまっていました。
できない自分を少しずつ受け入れながら、折り合いをとっていくしかないなと。
そんな中、仕事しながら、なぜ食事制限をしたり、苦しいトレーニングをしているのか?ということを改めて考え直していたんです。

仕事でいっぱいいっぱいなら、競技辞めて仕事に集中したら?という考えもあると思います。
私は、そんな中だからこそ、競技をやる価値があると、自分の中では納得感があります。
競技は適度な「痛み」を与えてくれます。
空腹感、身体の疲れ、時間の余裕がなくなる、精神的な余裕がなくなる、など。
これは、自分でコントロールしようとすればできる、「痛み」です。
そして、「痛み」があるからこその学びがあります。
トレーニングをする前は、この「痛み」はなく、毎日がメリハリなく、ぼんやり過ぎていました。
なんの不自由もせず、会社に守られていたのに、不安を感じていて、自分に自信がなかったです。
「痛み」があるからこそ、何気ない日常が幸せを感じられて、そんな痛みを乗り越えた自分に少しづつ自信を持てるようになっているんですよね。
なので、今日のアウトプットテーマはコレ↓
「痛みの過剰な排除は、人間や社会にどんな変化をもたらすのか?」
人は、身体的、精神的な痛みから学ぶことが多いです。
自分の痛みがわかって初めて、他人の痛みがわかる
痛みがあるから生がわかる、幸福がわかる
自分の過去を振り返っても、
「もう立ち直れない」
「この痛みは永遠に続くかもしれない」
とあの時は絶望していた、身体的な痛みや精神的な苦しみがあったからこそ、
それを糧に強くなり、今の自分を作っていると思うこと、誰もが経験あると思います。
そんな面があるにも関わらず、今は、色んなところで痛みを排除しすぎる傾向があるような気がします。
痛みの過去と今
なくなっている、見えなくなっている「痛み」
今の教育現場では、子供にいかに怪我や失敗をさせないために、部屋の構造、接し方、監視の仕方など、子供が怪我するリスクに全てふたをしようとしていることを、教育に携わっていた友人から聞きました。
昔は、先生が、少しの痛みをもって教育する例がたくさんありました。
今は、少しのことでも体罰と定義されるようになり、そういう行為に及ぶ先生は以前に比べて少なくなったのではないでしょうか。
悪いことをして近所のおじちゃんやおばちゃんにたたかれた人もいますよね。
そして今、痛みは以前ほどわかりやすくはないと思います
ネットでのいじめなど、目の前で痛みを見ることがないからこそ、痛みを見て学ぶ機会も少なくなっているのではないでしょうか。
痛みは言葉では教えられない
痛みは、言葉で全て教えられるものではありません。
「AをするとA’のような痛みがある、だからAはやってはいけない」
と教わったとします。
でも、みんながみんな、それに従えるとは思えません。
なぜならそれはルールのようなものだからです。
ルールは破られるためにある、なんていう人もいうくらい、破ることを正当化できるケースもあるはずです。
「Aが本当にA'だ」と近いことを見たり、経験したりして体感し、納得感を持つことで、初めてAはやらないという抑止力になるんだと思います。
痛みを排除しすぎると、
・小さな怪我で済むことが大きな事故につながるリスクが高まる
・他人の痛みが理解できずいじめをする、いじめに関わっていることに気づかない
・痛いものがわからないと、痛くない、快適なものがはっきりわからなくなる。→幸福感が薄れる
・いざ何かのきっかけで痛みが発生してしまった時、身体的・精神的に支配されてしまう(その痛みがある限り何もできない、その痛みのせいで・・・)
まさに、痛みの排除は、現代人に足りない「身体性」を奪ってしまう1つの原因だと思います。
死なない程度の適度な質の痛みに体を慣らすから、身体も心も慣れて、再生しようとします。
筋肉でいうところの「超回復」です。
強くなろうとしたら、痛みとともに1度ぶっ壊す必要があるということです。
痛みを避けすぎるから、痛みが出た時にそれをやわらげたり、回避する手段を持たず、
身体のなんとなく不調に精神まで支配されてしまいます。
痛みとは
痛みの種類
人が経験する「痛み」の種類はいくつかあります。
精神的な痛みでも、胸が痛んだりするように、
どれか1つに当てはめられるものではなく、この面も、この面もあるな、というように、
痛みは多面的で、主観的なものだと思います。
誰かが誰かの痛みを取ってあげることは、不可能です。
だからこそ、身体の色々な面を使って、突然やってくる痛みに立ち向かわなくてはいけません。
痛みはできるだけ経験したくないというのは、みんな同じだと思います。
確かに、学ぶために必ずしも痛みは必要ではないものの、痛みが教えてくれる学びはたくさんあります。
で、言いたいことはというと・・・
・過去を振り返ると、自分の転機となったり、自分の考え方のベースを作ってきた経験は、「痛み」をきっかけに形成されたものが多い
・「痛み」を生み出す可能性があるものを現代の人は極端に排除しようとしている
・「痛み」を能動的に求めることができる人は少ない
・「痛み」からの学びは、カリキュラムやプログラムの中にあえて組み込むことはできない。偶発的に起こることから学ばなくてはいけない。
・いきなりラスボスのような「痛み」がやってくる前に、小さな「痛み」でレベル上げをしておかなくてはいけない
・"What doesn't kill you makes you stronger"
「あなたを殺さないものはあなたを強くする」
→「辛くても、死ななければ強くなる」
あなたにとって「痛み」とは?
あなたを変えた「痛み」は何ですか?
あなたは、その「痛み」を感謝しますか?それとも、恨みますか?
あなたは、「痛み」を自分から取りに行けますか?
人生で痛みはずっと続くものなのだから、痛みに立ち向かえるパワーを持った人間でありたい、親になったら、そういう人間を育てたい。
痛みにもうちょっと寛容になってもいいのでは、と考えているこの頃です。
要するに何が言いたいかというと、
痛みを日常に取り入れるために、スポーツはいい手段ということです。
筋トレしましょう。
おしまい。
減量を開始した直後、ちょっと煮詰まって精神的にいっぱいいっぱいになり始めたので、早速色々なことのリセットをしていた4月2-3週目でした。
自分は思っていたほど強くない、できない、という現実から
もっとやらなきゃ、勉強しなきゃ、、と焦る気持ちが数カ月続いていて、とうとう心が消耗しきってしまっていました。
できない自分を少しずつ受け入れながら、折り合いをとっていくしかないなと。
そんな中、仕事しながら、なぜ食事制限をしたり、苦しいトレーニングをしているのか?ということを改めて考え直していたんです。
仕事でいっぱいいっぱいなら、競技辞めて仕事に集中したら?という考えもあると思います。
私は、そんな中だからこそ、競技をやる価値があると、自分の中では納得感があります。
競技は適度な「痛み」を与えてくれます。
空腹感、身体の疲れ、時間の余裕がなくなる、精神的な余裕がなくなる、など。
これは、自分でコントロールしようとすればできる、「痛み」です。
そして、「痛み」があるからこその学びがあります。
トレーニングをする前は、この「痛み」はなく、毎日がメリハリなく、ぼんやり過ぎていました。
なんの不自由もせず、会社に守られていたのに、不安を感じていて、自分に自信がなかったです。
「痛み」があるからこそ、何気ない日常が幸せを感じられて、そんな痛みを乗り越えた自分に少しづつ自信を持てるようになっているんですよね。
なので、今日のアウトプットテーマはコレ↓
「痛みの過剰な排除は、人間や社会にどんな変化をもたらすのか?」
人は、身体的、精神的な痛みから学ぶことが多いです。
自分の痛みがわかって初めて、他人の痛みがわかる
痛みがあるから生がわかる、幸福がわかる
自分の過去を振り返っても、
「もう立ち直れない」
「この痛みは永遠に続くかもしれない」
とあの時は絶望していた、身体的な痛みや精神的な苦しみがあったからこそ、
それを糧に強くなり、今の自分を作っていると思うこと、誰もが経験あると思います。
そんな面があるにも関わらず、今は、色んなところで痛みを排除しすぎる傾向があるような気がします。
痛みの過去と今
なくなっている、見えなくなっている「痛み」
今の教育現場では、子供にいかに怪我や失敗をさせないために、部屋の構造、接し方、監視の仕方など、子供が怪我するリスクに全てふたをしようとしていることを、教育に携わっていた友人から聞きました。
昔は、先生が、少しの痛みをもって教育する例がたくさんありました。
今は、少しのことでも体罰と定義されるようになり、そういう行為に及ぶ先生は以前に比べて少なくなったのではないでしょうか。
悪いことをして近所のおじちゃんやおばちゃんにたたかれた人もいますよね。
そして今、痛みは以前ほどわかりやすくはないと思います
ネットでのいじめなど、目の前で痛みを見ることがないからこそ、痛みを見て学ぶ機会も少なくなっているのではないでしょうか。
痛みは言葉では教えられない
痛みは、言葉で全て教えられるものではありません。
「AをするとA’のような痛みがある、だからAはやってはいけない」
と教わったとします。
でも、みんながみんな、それに従えるとは思えません。
なぜならそれはルールのようなものだからです。
ルールは破られるためにある、なんていう人もいうくらい、破ることを正当化できるケースもあるはずです。
「Aが本当にA'だ」と近いことを見たり、経験したりして体感し、納得感を持つことで、初めてAはやらないという抑止力になるんだと思います。
痛みを排除しすぎると、
・小さな怪我で済むことが大きな事故につながるリスクが高まる
・他人の痛みが理解できずいじめをする、いじめに関わっていることに気づかない
・痛いものがわからないと、痛くない、快適なものがはっきりわからなくなる。→幸福感が薄れる
・いざ何かのきっかけで痛みが発生してしまった時、身体的・精神的に支配されてしまう(その痛みがある限り何もできない、その痛みのせいで・・・)
まさに、痛みの排除は、現代人に足りない「身体性」を奪ってしまう1つの原因だと思います。
死なない程度の適度な質の痛みに体を慣らすから、身体も心も慣れて、再生しようとします。
筋肉でいうところの「超回復」です。
強くなろうとしたら、痛みとともに1度ぶっ壊す必要があるということです。
痛みを避けすぎるから、痛みが出た時にそれをやわらげたり、回避する手段を持たず、
身体のなんとなく不調に精神まで支配されてしまいます。
痛みとは
痛みの種類
人が経験する「痛み」の種類はいくつかあります。
- 身体的に感じた痛み
- 自分が原因
- 偶発的:どこかにぶつかった、料理をしていて手を切った
- 計画的:トレーニングで体を追い込む、食事制限をする
- 他人が原因
- 偶発的:道行く人に危害を加えられた
- 計画的:相手がいるスポーツ(格闘技、コンタクトスポーツなど)
- 精神的に感じた痛み
- 自分が原因
- 偶発的:身の回りに起きた出来事から痛みを自ら作り出す(意識・無意識)
- 計画的:瞑想・修行
- 他人が原因
- 偶発的:ふと発した言葉が他人の怒りを買う、他人から攻撃されたと感じる
- 計画的:他人の集団に自分をさらしにいく(スピーチ、面接など)公共人の立場でいる。
精神的な痛みでも、胸が痛んだりするように、
どれか1つに当てはめられるものではなく、この面も、この面もあるな、というように、
痛みは多面的で、主観的なものだと思います。
誰かが誰かの痛みを取ってあげることは、不可能です。
だからこそ、身体の色々な面を使って、突然やってくる痛みに立ち向かわなくてはいけません。
痛みはできるだけ経験したくないというのは、みんな同じだと思います。
確かに、学ぶために必ずしも痛みは必要ではないものの、痛みが教えてくれる学びはたくさんあります。
で、言いたいことはというと・・・
・過去を振り返ると、自分の転機となったり、自分の考え方のベースを作ってきた経験は、「痛み」をきっかけに形成されたものが多い
・「痛み」を生み出す可能性があるものを現代の人は極端に排除しようとしている
・「痛み」を能動的に求めることができる人は少ない
・「痛み」からの学びは、カリキュラムやプログラムの中にあえて組み込むことはできない。偶発的に起こることから学ばなくてはいけない。
・いきなりラスボスのような「痛み」がやってくる前に、小さな「痛み」でレベル上げをしておかなくてはいけない
・"What doesn't kill you makes you stronger"
「あなたを殺さないものはあなたを強くする」
→「辛くても、死ななければ強くなる」
あなたにとって「痛み」とは?
あなたを変えた「痛み」は何ですか?
あなたは、その「痛み」を感謝しますか?それとも、恨みますか?
あなたは、「痛み」を自分から取りに行けますか?
人生で痛みはずっと続くものなのだから、痛みに立ち向かえるパワーを持った人間でありたい、親になったら、そういう人間を育てたい。
痛みにもうちょっと寛容になってもいいのでは、と考えているこの頃です。
要するに何が言いたいかというと、
痛みを日常に取り入れるために、スポーツはいい手段ということです。
筋トレしましょう。
おしまい。
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