理想の体に、あまり興味がない理由。

ボディビル・フィットネスなど、見た目を競う人をフィジークアスリートと英語ではいいます。
そんなフィジークアスリートになって、3年目になりました。

1年目から2年目の変化↓





写真のように、競技のカテゴリに合わせた見た目を向上させることが競技の目的ではありますが、私にとって、これは目的ではなく、手段です。

こういう身体の変化も、順位も、私にとって目的ではないんです。


心・技・体。

という言葉を、聞いたことがある人は多いと思います。

ある競技で、向上したい!と思ったら、この3つの面全てにおいてバランスよく取り組む必要があるということです。


心:どう取り組むか、どう判断して、どう精神的に成長するか

技:どう食べるか、どう動かすかなど、テクニックの部分

体:体力をつける、筋力を増す、スピードを上げる、理想の体の見た目を創るなど、身体能力・見た目の部分



中高の部活で、この言葉をよく聞きましたが、当時は何のことかよくわかっていませんでした。

30になり、フィットネスという新しい競技と向き合わせていただく機会があり、
改めてこの言葉の意味が、自分の中で腑に落ちてきている自分がいます。


この3年を振り返ると、まさにこの心・技・体すべてに取り組んできたと思います。




理想の体をつくりたい、あんな体になりたい、そういった動機で競技を始めて、身体が変わり始めました。

ですが、見た目を向上するモチベーションは長くは続きませんでした。

技術

身体がどう作られているか、どう動かし、どう食べると筋肉は大きくなるのか。人体に関する知識に興味が出てきます。

教えてくれる人がいれば幸せなことですし、そうでなくても、今は本やネットで自分で学ぶ環境が腐るほどあります。

ある程度学ぶと、8割の成長を得るための情報やスキルは手に入るようになります。
あとの2割の追求をするかどうかは人それぞれですが、やりたいことが多くある中で、私にはこの2割にこれ以上熱を割くことはできません。



最近は、この心の部分への取り組みに、どんどん引き込まれていってます。

競技をやっていて、思ったように身体が変わらない、競技会で順位がもらえない、といった課題を認識して疑問が出てきます。


自分(他人)は、なぜそのスポーツをやるのか?

そのスポーツに取り組むことによって何を得たいと思っているのか?実際に何が得られるのか?

そのスポーツとは、何を競うものなのか?

そのスポーツを通じて、自分(他人)は何を得てきたか?どう自分(他人)が創り変えられてきたか?

なぜ、競技で追及する目的に興味がないのに、継続するのか?

必要のない制限を課すことでの痛み・苦しみにはどんな意味があるのか?

なぜ、自分(他人)はXXの考え方に執着するのか?なぜ怒りを感じるのか?

競技と仕事で共通している本質とは何か?



こういった疑問すべてが、自分・他人・人間一般を知るための手段になっています。




スポーツの価値とは、それに取り組むことを通じて、人間性をはぐくむ、つまり、自分・人間一般を少しでも深く知り、理想の人間像に自分を創り変えることだと思います。


自分の理由、他人の理由、その集団がどう動いているか。
それを考えたり、知ることができるのが今はものすごく楽しい。






今までの人生で、自分は、ここに向き合うことができていませんでした。

自分に向き合う・考えるということの意味が、わかっているようで、全くもってわかっていませんでした。

ようやく人間になれた(笑)、これが、フィットネスに出会えて一番よかった理由ですね。




2019年、フィットネス競技三年目。

理想の体をつくりたい!は1年目。

トレーニング上手くなりたい!は2年目。

3年目、今年の一番のテーマは、もっとよく人間を理解したい!
まともな人間になりたい!




毎年学びのテーマが変わるからこそ面白い。

学んだことを、競技以外にどんどん生かしていきたい。

だから、私はこれを”ショー”ではなく、”競技”として取り組みたい。
(ここは、私がアンチドーピングにこだわる一番の理由です。この話題はまた次回以降に・・・)

そしてこれは、自分以外の他の人間や集団に、誰にも強制されない、侵されない神聖な領域だと思っています。


最近もやもやしていたいくつかの1つが、ようやく吐き出せて、すっきり。

今日はこれでおしまいです。おやすみなさい。


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